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【前編】STIFFY a.k.a TAKE/BOTH WINGS-レゲエの仲間と拠点を求めて

2016/06/12

STIFFY a.k.a TAKE/BOTH WINGS(東京・サウンド)

STIFFY

東京シーンの根幹を支え、現在でも数多くのダンスに出演するBOTH WINGSのコアであるSTIFFY。
現場のど真ん中にい続けると同時に、変化や流れを見続けてきたからこそ見えるものとは? 音楽にかける愛と情熱、活動を行えるモチベーションの源を尋ねた。

STIFFY a.k.a TAKE/BOTH WINGS
鹿児島県出身、東京在住。MC/Selector。2001年東京にてサウンドクルーBOTH WINGSを結成。サウンドシステム"TRAVELLERS BOXX"を携えながら、関東中心に各地の現場で活動している。

 

音と情報を求め、貪欲にレゲエを探し求めた10代

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レゲエに出会った直接的なきっかけ

-STIFFYは鹿児島出身ですが、レゲエとの出会いはいつ頃でしたか?
「中学の先輩に借りたCDにJ-popに交じってShineheadが入っていて『あれ、これなんか今までの音楽と違うな』と興味を持ったのがきっかけ。1993年ごろかな。
Hiphopとも違うしダンスミュージックでもなくて、今まで自分が出会ったことがないタイプの音楽だったことに衝撃を受けたんだよね。

それから街中に出かけてはCDを買って、Riddim(※1)みたいなフリーペーパーや、レゲエマガジン(廃刊)のような専門誌を手に入れて手探りでちょっとずつ情報を集めて。
とにかく田舎で情報源がないからさ、BMR、RemixとかHiphopの音楽誌もよく読んでた。レゲエ情報がちょっとでも載ってたら古本でも買ってさ、線とか引いて何回も読みこんで(笑)」

-インターネットが普及する前時代は、情報と出会うことが貴重でしたよね。
「本当にレゲエ一筋に何でも貪欲に聴いて、曲や歴史を覚えていって、機材を触って。そうやっていろんなとこに散らばってた知識を集めて、身に着けて、自分のスタイルを作るベースにしてたよ。

CDじゃなくって、シングルがレコードでリリースされる文化(※2)だということも知って、7inch(※3)も買うようになっていって。
でもお金なくてなかなか買えなかったなー。月にアルバム1~2枚買うのがやっとでさ、買ったものを大切に聴き込んでたよ。

ターンテーブルの機材一式を手に入れたのもこの頃。最初は全く繋げなくて、悔しい思いしながら1日中練習してた」

 

『レゲエは終わってない!』悔しさが全ての始まり

-熱心なリスナーから、演者へシフトしたきっかけは?
「地元シーンの拠点の一つにザイオンっていうクラブバーがあって、自分もお客さんとして通ってたの。友達と意味もなく集まったり、先輩たちにクラブ遊びの仕方をレクチャーされたりしながら、もっと突っ込んだレゲエの作法を学んだりしてたんだけど。

いつだったか…… 地元の音楽的な有名人の一人に『もうレゲエなんか終わったよ』って言われた時があってさ。

熱中しているものを否定されたことにカチンときてさ、『そんなことねーよ』って証明したくて、ちゃんとレゲエと向き合おうと思ったんだ。
音楽仲間と対話する環境があり、気持ちに火が付いた出来事があり、その両方が初めて噛み合った瞬間がまさにそうだったんだよね」

 

シーンがなかった場所で、プレイできる環境を自分たちで準備

-初めて人前でプレイしたのはいつでしたか?
「97年くらい、高校生の頃かな、DJから一般のお客さんまで含んだザイオンクルーでやるイベントで、DJとして回させてもらったのが初体験だったね。
ダンスホールが流行ってたからShabba RanksやNinja Man、Beenie ManにBounty Killerとか好きなものを選びつつ、自分なりに工夫してプレイしてた。

当然ながら人前でやるのはおぼつかないし、今でも勉強しつつのところは多々あるけれど、人前でやっていくうちに自然と慣れてコツも掴んでいったかな。

ザイオンのイベントってさ、15年くらい前の地方の田舎なのに毎回100人くらい集客しててさ。それこそ、当時レゲエをキャッチできてたような感度が高い人はみんな集まってた。

そうやって集まったみんなで遊びながら、自分たちで“ダンスホール”って名のシーンを作っていってたんだよね。その過程はたまらなく面白かったよ。1年半くらいの期間だったけど、黎明期的なパワーをあちこちから感じて楽しかった」

 

高校卒業後に上京し、東京での音楽活動をスタート

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新たな土地で、新たな仲間づくりに奔走した20代前半

-東京に来てからは、どのような活動を行っていたんでしょうか?
「誰とも何のつながりもないから、現場とレコードショップなんかを回って、レゲエの繋がりを築くところから始めたよ。

地元の先輩がちょうど東京にいたから、青山アフロマニア(※4)、六本木Club Jamaica(※5)、新宿Garam(※6)やKingston Club(※7)とか、勢いのあった東京のクラブをいろいろ見せてくれてさ。

都内の現場は空気感が熱くて緊張したけど、ぶっちゃけ、地元でもやってたから自分も通用すると少しは思ってて(笑)。今考えると疑問なんだけど、ミックステープを持ち込んで『回させてください!』って持ち込み営業した時期もあったよ、怖いもの知らずだよねぇ(笑)。門前払いされた箱もあったけど、東京でもレゲエに関わりたかったから諦めるつもりはなくて、地道に続けてたけどね。

それで縁があったGaramで毎週月曜日に時間をもらえて、結局2年くらいやってたかな。
その頃に毎週来てくれてたのが、ダンサーやる前のJUNKO(※8)だったり、たまたま東京に転勤で来てた大阪HACNAMATADA(※9)のソラさんだったり。この頃つながれた人とは、今でも仲良くさせてもらってるよ」

-日々、レゲエ活動だけを行っていたんですか?
「いや、通ってた写真学校の縁もあって、カメラマンやライター業として雑誌作りに携わったりもしてた。Relaxって雑誌の編集部で電話番のバイトをしていたんだけど、そこで出会ったライターさんと一緒に小山田圭吾をレゲエ祭に連れて行くっていう企画を担当したり、別のレゲエ特集の責任編集を任されたりするようになったりね。

そのあたりの仕事流れで20歳ごろ初めてジャマイカに行ってさ。新しい場所で、とにかく何にでも首を突っ込んでは面白がっていたな」

 

音楽の拠点であり、人の居場所でもある“BOTH WINGS”結成

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都内での地道な活動が実を結んだ2001年、サウンドを結成

-当時は、レゲエが大流行する直前のような熱がありました。ちょうどBOTHも結成した頃ですね。
「正式に立ち上げたのは2001年頃だね。Turbo(MC)がまだAudio Kitchenってクルーにいた時代に、Hibikillaが主催してた池袋CLUB MADAM CARRASでやってたイベントに出ていて、そこでみんなつながった。
当初は俺がSelでVoiceがMC。メンバーの帰郷や入れ替えなんかで俺一人で動いてた時もあったけど、一時的に地元に戻ってたTurboが再び戻ったタイミングで一緒にやりだした。

立ち上げて最初の頃は、自分たちでダンス企画したり、横のつながりで呼び合ったりして営業が増えてったね。既に活躍してるサウンドや先輩はいっぱいいたけど、自然と、自分たちで作っていくやり方を選んでたかな。
同い年も多かったし(※10)、別のクルーでも切磋琢磨しあえる友達がたくさんいたんだよね。

この頃東京のシーンも、これまでに撒いた種が芽吹く寸前の躍動感みたいなのがあってさ。人とものとトピックがレゲエに集中していて、何かが起きる前兆みたいなのはあったんだ」

-確かに、『誰が売れるか分からないから、今この瞬間が面白い!』といったような意識が広くありましたね。
「今の現場に残ってる人たちって、2000年代に活動し始めた人が多いよね。みんなが手探りでそれぞれの道を目指して試行錯誤している感じが面白かった。全員が自分自身に賭けていて、お互いの成長を見合いながら、刺激を受け合ってたよね。

演者側に “勝ち上がろう”って思いやパワーがあり、未熟なりに大きな夢を描けた。それを素直に追える若さもあったし、自分たちが主体となって流れを興すんだっていう意識を、みんなが高く持っていたのかもしれない」

 

夢とともにに突き進んだ20代中盤、初めての挫折感

-サウンドを続けてきた中で、辛かったことや特に印象に残っていることはありますか?
「俺はその時から家庭があったし、仕事しながらサウンドやるってスタンスだったけど、勢いがあるシーンのど真ん中で活動に手ごたえを感じる経験をしてきたから、サウンドやってて辛さを感じたことないんだよね。

もちろん、クルーもダンスでの集客も、規模が大きくなるにつれ責任は出てくるし、したいことを実現するためにするべき努力なんかはあるけど、それを辛いと思ったことは一度もないんだ。

当時、渋谷UNITYっていうクラブがあって、そこが俺ら世代の活動拠点になっててさ。毎週固定曜日にレギュラーダンスを打ったり、週末に大きめのダンスを企画したり、地方から演者も呼んだり、すごく賑わってて渋谷のレゲエ箱の代名詞になってたんだよね。
したいことは全部UNITYで出来たし、これからやりたいこともたくさん考えてた。

でもいろいろあって、2000年代あたまに閉店しちゃってさ。あらゆるところに影響があってTurboがMC活動を中断して、活動のプラットフォームもなくなって、俺一人で現場を巡らきゃいけないことも増えて……。これまでやってきたものが、突然、全てなくなったように思えて。あの頃は、正直きつかった。
あぁ、俺は今まで何をやってきたんだろう、って愕然としてね。その時初めて、サウンドを辞めようと思った」

サウンドシステムに込めた願いと意味

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-主力メンバーや拠点がない状態で、なお、活動を続けられた理由は何だったんでしょうか。
「その頃、BOTHでサウンドシステム"TRAVELLERS BOXX"を作ったのね。もちろんクルーの設備として欲しかったんだけど、『システムがあれば、クラブがなくても、仲間が戻って来られる場所を作れるんじゃないか』って思いもあったの。スピーカーがあればどこでだって音は出せるし、現場は作れるから。

これまでBOTH自体にメンバーの出入りもたくさんあった。シーンから消えてしまった友達もいる。そういう人の流れを目の前で見てきたから、仲間と音楽が集まる場所を自分で用意したかった。俺にとってシステムは、大切な場所っていう意味でのアイコンでね。
何が何でも絶対にシステムを持つって決めて作った。

そういう出来事を経て、今のメンバーは、俺とTurbo、Kidrat(Deejay/Engeneer)、OYAKATAと77BANKS(Deejay)、Arrow-Tの6名になった。

それぞれレゲエ以外の仕事もやってるし、年齢的に昔みたいに現場にべったりってのは難しいからこそ、定期的に集まれる場として看板ダンスを主催したりして、拠点をいつも備えるように意識してるよ」(後編に続く)

Annotation
(※1)Riddim/レゲエ、ヒップホップなどリアルミュージックを伝え続ける、音楽シーンの根幹を支えるメディア。現在はオンラインマガジン「Riddim online」として運営。
(※2)シングルがレコードでリリースされる文化/シングルは1曲や2曲程度を収録したミニマムな販売単位を指す。レゲエは、シングルを7インチレコードで販売する形態だった。
(※3)7inch/7インチレコード。45(フォーティファイブ)、ドーナツ盤とも呼ばれる。
(※4)青山アフロマニア/1980年代後半~90年代に存在したクラブ。
(※5)六本木Club Jamaica/1986年にオープンして以降、日本のレゲエシーンを支えてきたクラブ。現在は閉店。
(※6)新宿Garam/1997年にオープンしたレゲエクラブ。
(※7)新宿Kingston Club/1990年代に東京シーンの拠点の一つだったクラブ。現在は閉店。
(※8)JUNKO/ジャマイカで開催されたダンスコンテスト「Dancehall Queen 2002」にて優勝した日本人ダンサー。DANCEHALL QUEEN JUNKO
(※9)HACNAMATADA/大阪を拠点に活動するサウンド。
(※10)同い年も多かったし/当時のレゲエムーブメントの影響を受け、1978年前後生まれの表方・裏方が多いという通説より

 

STIFFY a.k.a TAKE DATE
鹿児島県出身、東京在住。MC/Sel。2001年東京にてサウンドクルーBOTH WINGSを結成。サウンドシステム"TRAVELLERS BOXX"を携えながら、関東中心に各地の現場で活動している。
●Twitter @STIFFYBOTHWINGS
●Facebook takehito.t.tanaka
●Blog STIFFY or STIFF ??

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